焼き畑

気がついたら焼け野原

今日のやつ その7

 三連休を無為に過ごす。反省。私には時間がないことをより一層自覚する必要がある。
 ところで、私たちの生活に精神力は本当に必要ないのだろうか。
 私にはなぜ気力や集中力がこんなにもないのか、毎日のように自問し続けているが、一向に答えは出ない。悩んだ末、効果はないと知りつつも自己啓発のたぐいの本を何冊も積み上げては崩している。そのような自己啓発本によく出てくるのが「モチベーションは無理に出すものではない」「精神力は必要ない」という類の、アンチ精神論とも言うべき文句だ。
 曰く、集中力は人間は30分も続かない。曰く、努力を続けている人は努力を続けているという自覚がないまま日々鍛錬を積んでいる。それは習慣化できているからだ。曰く、誰でも何かを始めるのは億劫だ。最初の一歩を極限まで最小化してしまってその一歩を踏み出しさえすれば自ずとモチベーションは湧いてくる。
 そのすべてを否定はしまい。ただ、こう何度も同じ文句を聞かされ、失敗し続けていると、ふと考えることがある。このように声高にアンチ精神論が叫ばれる理由の一つは、昭和・平成でもてはやされた、スポ根精神、体育会系のノリの過剰な反動だったりしないだろうか。若い頃の苦労は買ってでもしろ、滅私奉公で会社に支えろ、そんな言葉がやれブラックだ古い概念だと騒がれて随分経つ。今日日、身を粉にしてつらい思いをしてまで鍛錬に励む、というのをナンセンスだと考えている若者は多いだろう。私を若者に数えて良いのならば、私もそのうちの一人だ。だが、かと言って精神論がすべてダメだと全否定してしまうのも行き過ぎている気がしないでもない。習慣化が重要なのは確かだろう、意志の力一つですべてを回していたら疲れ切ってしまうのも道理だ、だけど歯車を回すための最初のひと押しはいつだって意志の力、精神力ではないだろうか。であればこそ、やはり突き詰めていけば精神論は決していつの世もなくなってはならぬものであり、精神力がなくても仕方ない集中力が続かないのはみんな同じ、と自分を説得し続けてしまうのは、ただ怠けているのと変わらないのではないか。
 あるいは単純に、甘い言葉で釣ったほうが本は売れるから、という可能性も大いにある。「こんな簡単に人は成功をつかめますよ」、とタイトルにあれば確かについつい手を伸ばしてしまうのは心理である。
 だとすればやはり、成功の秘訣はこのような本に書かれないような、泥臭い精神論にあるような気がしてくる。  幸い、やっと忙しかった仕事から解放されつつあり、なんとか私生活に精神力が回せる兆しが見えてきた。ここだ、気合を入れてうまく習慣化の第一歩が踏み出せさえすれば。もしかしたらまた忙しくなったときも気持ちを腐らせることなく私生活を充実させられるのではないか。そんなことを思っているともう一時過ぎである。
 明日は起きれるだろうか。気合を込めて、布団をはねのけられたら、自分を誉めてやりたい。